福岡にゆかりの深い人物や史実を深堀りして行く歴史探訪シリーズ。第2段は、姪浜の地に生まれた江戸時代の儒学者で、唐人町に西学問所「甘棠館」を開校して多くの優れた人材を輩出、加えて志賀島で発見された金印の鑑定を行った亀井南冥にスポットライトを当ててみました。
地下鉄姪浜駅の北側850m先にひっそり立つ「亀井南冥生誕の地」
「亀井南冥生誕の地」は、地下鉄姪浜駅の北口から出て姪浜駅交差点を真っ直ぐ北上。姪浜駅北口の交差点の信号を渡って細い道を北に北に進んで行った住宅街の駐車場にひっそりと碑が立っています。
亀井南冥という人物は何をした人?
江戸時代の儒学者であり、医者であり、教育者であった亀井南冥
筑前国姪浜村に町医者の息子として生まれた亀井南冥(1743~1814)は江戸時代に活躍した儒学者であり、医者であり、教育者でもあった人物で、漢詩や絵画にも優れた才能を持っていたといわれています。
儒学とは、古代中国の儒教の思想を基本にした学問を指しており、南冥は若年期に儒学と医学を学んだ後、現在の中央区唐人町で医者として開業し、私塾の「亀井塾」も開校。1778年には、黒田藩の7代藩主・治之公から儒医として採用されました。
その6年後の1784年には、新設された東西2つの学問所(甘棠館・修猷館)のうち、西学問所の甘棠館(現在の「唐人町」バス停の北側付近に開校)の初代館長に任命され、教育者として多くの優れた人材を輩出しています。
甘棠館の館長に任命された同年の1784年、志賀島で金印が発見されますが、それを南冥が鑑定し、金印が後漢の光武帝からの贈り物であることを『後漢書』に基づいて考証したとも伝えられています。
西学問所(甘棠館)跡
唐人町商店街よりさらに北側にある西学問所(甘棠館)跡
西学問所跡は火防の神を祀る八橋神社境内にある
修猷館の方が”西”というイメージですが、昔は東学問所が平和台のバス停付近にあった為、修猷館が”東”の学問所だったのですね。西学問所(甘棠館)跡は唐人町商店街よりもさらに北側(地下鉄唐人町駅から徒歩3分)にあり、火防の神を祀る八橋神社の境内に立っています。
西学問所跡の右横にある八橋神社は商売繁盛の神様でもある
境内の梅の木は見頃の時期に美しい花を咲かせるといわれている
波乱に満ちた晩年
福岡藩によって開設された2つの学問所(藩校)である甘棠館と修猷館は東西で競い合いながら学問の発展に寄与していました。
2つの学問所が開校した年に南冥が金印の鑑定・研究を行い、遅れて金印の研究を行った東学問所の学長・竹田定良を大きくリードした事もあり、西学問所の人気は東学問所を圧倒するほどだったといわれています。
東学問所の修猷館が幕府御用達の「朱子学」を主としていたのに対し、西学問所の甘棠館は「徂徠学」という江戸中期の儒学者・荻生徂徠が提唱した儒学を主とし、学生の自主的な学習を尊重していました。
西学問所跡には1本の木が立っている
そんな中、1790年に「寛政異学の禁」(松平定信の寛政の改革による学問統制)が布告され、2年後の1792年に敵対心をあらわにした東学問所の攻撃を受け、南冥は館長を罷免されてしまいます。さらに不幸なことに、甘棠館は1798年に起きた唐人町の大火に巻き込まれて焼失し、再建される事なく廃校に。
火防の神様を祀る神社のそばにあるのに甘棠館はなぜ焼失してしまったの?と思う方もいるかもしれませんが、当時、八橋神社は鳥飼八幡宮の境内にあったとされており、現在地に遷座されたのは明治時代末頃だったそうです。
甘棠館で学んでいた学生達は、やむなく東学問所の修猷館に編入を余儀なくされました。失意に沈んだ南冥でしたが、息子の昭陽とともに再び私塾の「亀井塾」を復活させます。南冥も指導に携わり、多くの学生達から慕われました。
その門下生として広瀬淡窓、平野國臣、高場乱といった偉人も輩出されており、亀井塾は明治初期まで続きました。その後の1814年、数えの72歳の時に、南冥は自宅の失火で亡くなったといわれています。
亀井南冥と息子の昭陽が眠る浄満寺
浄満寺の入口
西学問所(甘棠館)のあった唐人町三丁目に程近い地行二丁目(地下鉄唐人町駅から西に徒歩8分)に亀井南冥と亀井昭陽が眠る浄満寺があります。息子の昭陽は1836年、64歳の時に百道松原の百道林亭の学舎で亡くなったといわれています。
石碑に刻まれた文字からも偉大さが窺い知れる
決して当たり前ではない日常に感謝
金印の鑑定を行い、西学問所(甘棠館)の館長として多くの門下生を輩出した亀井南冥。晩年は決して幸せとはいえない人生だったかもしれませんが、南冥の才能や残した功績は計り知れないものがあります。
もし、現在も甘棠館か亀井塾がそのまま残っていたとしたら、修猷館に匹敵するほどの学校が現在もあったのかもしれませんね。
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