戦国時代から江戸時代にかけて博多の復興に大きく貢献したといわれる人物が、当時の豪商・神屋宗湛(かみやそうたん)。その歴史を紐解いてみると、博多だけでなく日本における重要なシーンでも活躍したことが分かります。
久しぶりに更新する歴史シリーズの第4弾の今回は、そんな博多の豪商・神屋宗湛の軌跡を辿ってみますよ!
Contents
「神屋宗湛屋敷跡・豊国神社」までのアクセス
地下鉄箱崎線「呉服町駅」2️⃣番出口
「神屋宗湛屋敷跡・豊国神社」は、地下鉄の呉服町駅2️⃣番出口もしくは6️⃣番出口から出て5分程の博多小学校横にあります。出口を出たら、サンパレス方向に向かいましょう。
蔵本交差点に向かう
博多小学校(旧奈良屋小学校)は蔵本交差点付近にあるので、地下鉄の出口から蔵本方向に直進します。
蔵本交差点の信号を渡る
蔵本交差点まで辿り着いたら、信号を渡って左に曲がります。
ここを左折したらデイリーヤマザキの先まで進む
信号を渡って左折したら、「デイリーヤマザキ奈良屋店」の先にある1つ目の角を右折します。あとちょっとですよ。
「蔵本」バス停
歩いて行く途中に「蔵本」のバス停があるので、バス停を左手に見ながら進みましょう。
福岡銀行の所で右折する
1つ目の角の所に「福岡銀行」があり、そこを右に曲がると数十メートル先に神屋宗湛屋敷跡・豊国神社が見えてきます。
ここから数十メートル先が目的地
着いた!
神屋宗湛の曽祖父は島根の石見銀山を発見した人物だった
代々、博多の貿易商人の家に生まれた神屋宗湛。宗湛の曽祖父である神屋寿禎は16世紀に石見銀山(日本最大といわれる銀山)を発見し、本格的にその開発に携わったといわれています。かつて日本は、世界の銀の約3分の1を産出していたと推定されていますが、寿禎は銀を博多に運搬し、巨万の富を得ました。
ひいおじいさんの時代にも世界的な活躍を遂げていた神屋家。博多の発展に寄与した重要な人物だったことが分かりますね。
なぜか「本能寺の変」に巻き込まれてしまうという波乱万丈ぶり
宗湛は、豪商の地位を確立するべく当時の天下人であった織田信長に謁見しようと、同じく博多の豪商であった島井宗室とともに安土城に向かい、一度目の謁見の後、再び信長に謁見するため宗室とともに本能寺へ。
信長と謁見した後、本能寺に宿泊した宗湛と宗室はそこで本能寺の変に巻き込まれてしまい、燃え盛る本能寺から命からがら逃げ延びたのだとか。実はすごい体験をしていた人なんですね…。
神屋宗湛は豊臣秀吉の保護を受けた博多の三大豪商の1人
信長の死後、天下人となったのが豊臣秀吉でした。宗湛は秀吉から「筑紫ノ坊主」と呼ばれ、気に入られたといいます。秀吉から気に入られた宗湛が豪商としての特権を与えられてからは博多商人の第一人者として大活躍。大賀宗九や本能寺の変で共に逃げ延びた島井宗室の3人が「博多三大豪商」として知られるところです。
太閤町割でも大きく貢献した宗湛
戦国時代、日本全国が戦のために荒廃してしまいますが、荒廃してしまった博多の町を復興させるため豊臣秀吉が行った太閤町割では、秀吉から気に入られていた宗湛も重要な役割を担い、自らも物差しを持って博多の町の計測に奔走したそうです。秀吉の九州平定においては、資金面で援助をしたと伝わっています。
朝鮮出兵にも尽力
豊臣秀吉の保護を受け、朱印船貿易で巨万の富を得た宗湛は、朝鮮出兵においても秀吉を兵站(補給・輸送・管理)面で後方支援を行いました。宗湛は秀吉の晩年にいたるまで側近として尽くし、富を蓄積していきます。
茶人としても有名だった宗湛
宗湛は優れた茶人としても知られています。そもそもは織田信長や豊臣秀吉と親交が生じたのも、茶会を通じてだったと伝えられており、かの有名な千利休から茶の湯を学んだとのこと。また、黒田家の藩祖・黒田孝高とも茶の湯を通じての交流があったといわれています。
黒田家の御用商人としても大きく貢献
豊臣秀吉の側近として活躍した宗湛でしたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康からは冷遇されたといいます。そんな宗湛でしたが、福岡藩初代藩主の黒田長政から黒田家の御用商人として起用され、福岡城の築城の際にも資金面でかなり大きく貢献し、黒田家の片腕としても影で支えるという重要な役割を果たしました。
豊国神社とは?
豊国神社(とよくに/ほうこくじんじゃ)というのは、京都に総本社を置く豊臣秀吉公を奉斎する神社です。日本全国の秀吉公にゆかりのある地域に鎮座しており、こちらの豊国神社は明治時代の19世紀(1886年)、博多復興300年を記念して整備されました。
ここに神屋宗湛の屋敷が与えられたのは博多が復興した1587年で、その際に秀吉から広大な敷地と町役免除の特権を与えられたとのこと。宗湛は秀吉の恩に報いるべく、早いうちから邸内に秀吉の霊を祀っていました。これを基にして1886年に豊国神社が整備されたというわけです。
神屋宗湛のお墓があるのは博多区御供所町の「妙楽寺」
「ういろう」の発祥の地といわれる博多区御供所町の妙楽寺は、黒田家重臣や同じく博多の豪商であった伊藤小左衛門の墓所があることでも知られていますが、宗湛の墓所もこの妙楽寺にあるんですよ。妙楽寺の境内には、戦国時代に戦乱で焼けた石や瓦で造られた土塀の博多塀が残っており、こちらも見どころとなっています。
神屋宗湛は博多の復興に大きく貢献した重要人物
博多の復興に大きく貢献し、その後の九州の平定時や朝鮮出兵、福岡城の築城などの際も資金面で大いに支援することで、復興後の博多の発展にも大きな功績を残した神屋宗湛。神屋家の家名から取ったとされるのが、現在の「神屋町」といわれています。
知っているようであまり知られていなかった福岡の歴史。秀吉公が祀られている豊国神社は、出世運や開運のご利益があるということです。とても綺麗に手入れされた神社なので、一度お参りしてみてもいいかもしれませんね!
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