福岡市西区でも人気のベッドタウンといわれる姪浜は神々の降臨説が残る土地で、八幡神の1柱として日本のあちこちの八幡宮などに祀られ、三韓征伐伝説でも知られる神功皇后とも非常にゆかりの深い土地です。
それからさらに時が流れ、鎌倉時代の元の襲来後の1282年、幕府が九州の統治のためと、3度目の元軍の襲来に備えるために探題(鎌倉幕府の出先機関で西国を統治した役職)を博多に設置し、沿海の警備を行ったと伝えられています。
今回は、元寇後、約250年もの間、この地を外敵から護ってきた探題のうち、最後の探題・渋川堯顕の埋葬地である姪浜の「探題塚」をご紹介します。
探題塚・埴安(はにやす)神社の場所
探題塚・埴安神社の入口
江戸時代の儒学者・貝原益軒の「筑前国続風土記」にも登場する探題塚は、西区でも人気のベッドタウン・姪浜駅からマリナタウン方面に歩いて13分の姪浜小学校のお隣の敷地にあります。
細い道を入って行った場所にあるのでなかなか分かりづらくはありますが、姪浜小学校の西側にあるコーヒーショップ(Novel Cafe Lily)から舗装された道に入り、20~30m程先のジュースの自販機から右折。さらに細道を道なりに進んで行くと、石塀の前に階段があるのが見えます。
その階段の前に姪浜の歴史観光案内図があり、姪浜には多くの歴史史跡が残されていることが分かりますよ。
姪浜は神々が降臨したといわれる地で、神功皇后の伝説が残る場所
歴史史跡だけでも10箇所以上ある姪浜
神代の昔、姪浜の小戸の辺りで伊邪那岐大神によって禊祓が行われ、天照皇大神や須佐之命、月読命、住吉三神などの神々の降臨説が残っています。
また、神功皇后が三韓征伐の帰り道にこの地に上陸し、装束の衵を洗って干したことから「衵ノ浜」と呼ばれるようになり、それが訛って「姪浜」になったとのことです。
元寇防塁と探題との関係
生の松原の元寇防塁
元寇に際しては、鎌倉時代の1276年から1332年にかけて東区の香椎辺りから西区の今津辺りまでの約20kmにおよぶ元寇防塁が築造され、蒙古襲来に備えました。鎮西探題や九州探題と呼ばれる「探題」が設置されたのは、2度目の元の襲来(弘安の役)の1年後のことといわれており、西区愛宕の愛宕山(旧鷲尾山)に姪浜城が築かれたといわれています。
愛宕山(旧鷲尾山)に立つ鷲尾愛宕神社
フビライは2度の日本攻めが失敗した後も諦めず、再び日本侵攻を計画していた為、幕府は探題を設置して博多湾沿岸の警備を強化していたようですが、結局、再度の襲来は実現せず、日本の国土は守られたというわけです。
埴安神社と探題塚
細い石段を登ると埴安神社の鳥居が見えてくる
その後も、南北朝時代、室町時代、戦国時代にかけて鎮西探題、九州探題は続きますが、幕府の任命した最後の探題であったとされる渋川堯顕がこの地(光雲寺山城)で1534年頃戦死し、その亡骸を葬ったのがこの探題塚ということです。
探題が設置されてから250年間、国土が外敵から護られてきたというのは感慨深いですね。
埴安神社は鳥居だけが残されている
埴安神社は伊邪那美命から生まれた土の神様を祀る神社で、福岡を含め山口にも埴安神社が多数存在します。姪浜にあるこちらの埴安神社は鳥居の先が鍵が掛けられて中には入れないようになっています。
埴安神社 探題塚と銘打たれた石碑
探題塚の由来が書かれた案内板
この探題塚は台風によって荒廃しましたが、姪浜を中心とした有志の方々によって整備されています。今もお堂など境内は綺麗に保たれており、案内板には国土を守ってきた先祖の苦労に感謝を永久に忘れないように、と書かれていました。今の平和に感謝ですね。
お堂
今日も平和である事に心から感謝です。
「探題将軍」と書かれてある扁額
木の味わいからしてかなり年季を感じるお堂ですが、壁や床などは都度修復してあるようです。
小さな祠もあり、お地蔵様も並んでいました
不思議な形をした御神木?にはエネルギーが宿っていそう
いつの頃から生えている木なのでしょうか?樹齢は分かりませんが、非常に不思議なパワーのようなものを感じました。
また一つ、福岡の歴史を知ることができた歴史探訪。また色んな歴史史跡を巡りたいと思います。
<基本情報>
史跡名 | 探題塚・埴安神社 |
住所 | 福岡県福岡市西区姪の浜2-15-49(地下鉄空港線「姪浜駅」から徒歩約13分) |
電話番号 | なし |
公式HP | なし |
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